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【岡山の歴史】(3)吉備と好太王碑文~二頭政治を裏付ける石碑があった!?

[2026年1月13日]

ID:76518

韓流ドラマでもおなじみ「好太王」

 突然ですが、「好太王」という名を聞いたことはありませんか?韓流ドラマの主人公として登場したこともあり、日本でも知っている人は意外と多いのではないかと思います。

 西暦5世紀初頭、吉備(現在の岡山市北区)で当時最大規模となる造山古墳が築かれた前後、鮮半島諸国と倭(日本)の間の戦いの記録を記した石碑が「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」です。この碑文は現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に今も存在しており、高さ約6.3メートル、幅1.5メートルの巨大な石碑です。

造山古墳の航空写真

造山古墳(岡山市北区新庄下)

好太王碑文に「倭王」の記載がないのはなぜか?

 「好太王碑文」には、西暦391年に倭が朝鮮半島に襲来し、百済と新羅を従わせ、その後、西暦400年に高句麗が倭を撃退した、と記されています。一般的には、大和王権が朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていたことを示していると考えられています。

 しかしこの碑文には1つ不思議な点があります。倭の軍事活動についての話が書かれているにもかかわらず、倭王(倭国王)、つまり日本の王についての記載がまったくないのです

好太王碑文拓本
好太王碑文拓本 2枚目

高麗古碑拓本(好太王碑文) 東京国立博物館画像検索より
出典:東京国立博物館 研究情報アーカイブズ別ウィンドウで開く

中国の歴史書に「倭王」の空白期間がある

 ここで少し気になることがあります。好太王碑文に書かれている以前の倭について、中国の歴史書には倭王(あるいは倭国王)がいたと記されています。

 また、奈良県天理市の石上神宮に伝来している七枝刀には、“西暦369年に百済王の王子から倭王のために作られた”と記されていますが、これは「好太王碑文」よりも20年ほど前の時期です。
 更に「好太王碑文」後、五人の倭王(倭国王)が中国に遣使、つまり使いを派遣しています。

 この5人は「倭五王」と呼ばれていますが、最初に遣使したのが倭讃(いさん)で、421年に遣使し、将軍の官爵と倭国王に任命されたことが記録に残っています。

 これらを整理すると、前後の時期の史料には記載されている「倭国王」が、「好太王碑文」にだけ記されていないことになります。碑文に書かれている内容からしても、少々不自然に思えます。
これは西暦391年から421年まで倭国王が不在、あるいは何らかの理由で記載されなかった、記録上の「空白期間」があるということです

年表

歴史上の文書等に「倭王」の記録がない期間が存在する

倭国王の空白期間が、造山古墳と一致する?

 興味深いのはこの空白期間が、造山古墳の築かれた時期と一致していることです。岡山市では、吉備の王墓である造山古墳と大和の大王墓である上石津ミサンザイ古墳がほぼ同規模であることから、倭国は吉備と大和が共同統治する「二頭政治」であったという説を提唱しています。

 「好太王碑文」に倭国王の記載がないことも、この時期に倭国の代表者が一人ではなかった、つまり二頭政治が行われていたことを示す一つの手がかりなのではないでしょうか

 また、最近の渡来人に関する研究では、5世紀前半の大和は百済、吉備は新羅と親密であったことがわかってきました。吉備が朝鮮半島と独自に交易していたことも、大和と並び立つ存在に成長した要因と考えることができます

榊山古墳の写真
朝鮮半島産の馬型帯鉤のイラスト

造山古墳群の1つ「榊山古墳」からは、朝鮮半島産の馬型帯鉤も出土している。
全国で2例しかなく、他の1例は長野県の住居跡から出土。

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