岡山開府から間もなく旭川に架けられ、400年あまりにわたり岡山の市街を結び付けてきた京橋について、弘化4年(1847年)と大正6年(1917年)に完成した架け替え工事の記録(古文書、写真等)を所蔵資料から展示し、橋の移り変わりをたどります。
この展示は、明治150年を記念するとともに、近隣の図書館、博物館、記録資料館など9館が「橋」を共通テーマに連携して行うものです。
岡山の京橋が現在の位置へ最初に架けられたのは、宇喜多秀家が朝鮮の役から帰国した文禄2年のこととする伝えもありますが(大沢惟貞『吉備温故秘録』城府一、岡山城)、他の所伝もあり(たとえば『備陽国志』二之巻、岡山府、関梁では「慶長の比」)、はっきりしていません。しかし、岡山市内を縦貫する旭川にかかる3橋(京橋、中橋、小橋)は、天正年間に宇喜多氏が岡山城を居城と定め、城下にまちを開いてから、おそらく多くの年月を経ないうちに架けられたもので、市中へ国土の主要幹線である山陽道を取り込むとともに、旭川が東西に隔てる市街地を結び付ける役割を果たしてきました。最長径間の京橋はとくに3橋を代表し、それは開府から400年余りにわたって岡山のまちと栄枯をともにしてきました。
このように重要な京橋は、たびたび架け替えを繰り返されてきましたが、このたびは幕末の弘化4年に完成した近世で最後の木橋と、大正6年に完成した鉄筋コンクリート橋(現在あるもの)の、それぞれの工事に関する記録を展示し、紹介しています。
当館所蔵の国富家文書は、市内紙屋町(現在の北区表町三丁目)にあった国富家の土蔵で岡山空襲(昭和20年6月29日)の罹災を免れ、当時の当主の国富友次郎氏(教育者として現在の就実学園の創設等に尽くし、戦時中に第19代岡山市長を務めた)から、昭和20年9月に岡山市へ寄贈された500点あまりの文書で、現在「国富文庫」として広く利用に供されています。
国富家は江戸時代後期から海産物取引と金融で財をなした豪商で、幕末の安政年間から当主の国富源次郎が惣年寄(町奉行の下で岡山城下の民政や財政を司った町人の代表)を勤めたため、町方の行政の実態をうかがい知ることができる貴重な記録が多数含まれています。
木橋であった頃の京橋は洪水で流されることもあり、そうでなくても経年劣化でおおむね60年程度を限度に架け替えが行われてきました。そこでこのたびは、国富文庫にある幕末の弘化年間の架け替えの資料(架け替えのときの交通規制や、渡り初め式の次第などが記録されています)を展示しています。
その中でもとりわけ国富家に伝わってきた5枚続きの錦絵「備前岡山京橋渡り初図」は、旭川の向こうに岡山城を遠望しながら、弘化4年4月5日に行われた盛大な渡り初め式の様子を活写しています。
京橋御懸ケ替御渡り初之留 国富文庫96/41
幕末の架け替え工事と渡り初め式に関する記録が収められた文書です。町奉行から町役人を通じて領民に対して出された各種の触れの内容(工事中の橋の通行や渡し船による渡河について、とりわけ2か所に設けられた公設の渡し場に関するさまざまな規定や、市中に火事が発生した場合の通行のルールなど)や、工事中も参勤などのために多数の大名が御座舟などで渡河したこと、番所へ詰める役人のきまり、渡り初め式の一部始終(渡り初めに選ばれた3家族の名前や年齢、3家族が郡会所で料理を振る舞われて祝われたこと、普請にあたった大工らが受けたねぎらい、渡り初め式の当日の賑わいの様子、途中で小雨が降り出して一斉に傘が開いたが間もなく止んだこと)など、豊富な情報が書きとめられています。
京橋御懸ケ替御渡り初之留(表紙)
京橋御懸ケ替御渡り初之留(本文最初のページ)
(上に示したページの読み下し)
弘化三年丙午秋より京橋
御普請御取懸りニ相成橋杭
斗り御九月初方より十月
末迄ニ御出来ニ相成候
翌年丁未正月廿一日より御橋
御普請御取懸り廿六日より御橋
人止メニ相成申候大騒之御仕構ニ
御座候事
右ニ付御触御廻状之写
京橋御作事被
仰付候ニ付右御作事之内橋
往来留り候節より上者東
御門外下者長蔵前右両所ニ而
船渡し被仰付候間勝手次第
往来可有之候但右両所之外
ニ而自分船又ハ借船等ニ而銘々
渡り候義是又勝手次第ニ候
依之渡場并船中共混乱不仕
不礼理不尽之儀無之様ニ末々
堅可被申付候
(大意と補足説明)
弘化三年(丙午)秋より京橋
ご普請御取り懸りにあいなり、橋杭
ばかりご。九月初方より十月
末までに御出来にあいなりそうろう(候)。
翌年(丁未)正月二十一日より御橋
人止めにあいなり申しそうろう。大騒の御仕構に
ござそうろうこと。
右につき御触れ御廻状の写し
京橋ご作事
仰せ付けられそうろうにつき、右ご作事のうち橋
往来とまりそうろう節より、上は東
御門外、下は長蔵前、右両所にて
船渡し仰せ付けられそうろうあいだ、勝手次第
往来これあるべくそうろう。ただし右両所のほか
にて自分船または借船等にてめいめい
渡りそうろう義、これまた勝手次第にそうろう。
これにより渡し場ならびに船中とも混乱つかまつらず
不(無)礼理不尽の儀、これなきように、末々
堅く申付けらるべくそうろう。
京橋御懸ケ替御渡り初之留(本文20ページめ)
(上に示したページの読み下し)
小串村千吉之方渡り初相済
後御郡会所於御台所一汁三菜之
御料理頂戴仕家内一統揃候而
御用老様初メ御役人御一統様へ
御礼ニ参り翌六日晩迄廻勤致シ
誠ニ岡山中ヲまはり見物人多く
出候事大工日雇之者御樋小家ニ而
御料理頂戴仕候二日市町魚屋甚吉へ
三百六拾人前仕出請申事右ニ付
御渡り初大評判致し近国より見物
人多く出町内一家遠方之処者
前日より参り家ナミニ客御座候
又ハ船ニ而参ル者多く御座候川筋
之処ハ壱ヶ月前より約束ヲ致シ置
朝七ツ半比より参ルよし中島宿屋へ
町方之者迄も泊り参候事人多く
入込申五日朝橋本町門〆マリ
三軒ドコ垣ニ而〆マリ用場上手も
垣ニ而〆マリ中島も同事三軒
ドコより向河原船と人ニウモリ
如山クニ御座候上川崎町天瀬より
(大意と補足説明)
小串村・千吉の方、渡り初めあい済み、
のち、御郡会所、御台所において一汁三菜の
御料理頂戴つかまつり、家内一統揃いそうろうて
御用老様(岡山藩で政務にあたっていた家老)はじめ御役人御一統様へ
御礼にまいり、翌六日晩まで廻勤いたし
誠に岡山中をまわり見物人多く
出そうろうこと。大工、日雇のもの、御樋、小家(屋)にて
御料理頂戴つかまつりそうろう。二日市町・魚屋甚吉へ
三百六十人前、仕出(しだし)請け申すこと。右につき
御渡り初め大評判いたし、近国より見物
人多く出、町内一家遠方のところは
前日よりまいり、家なみに客ござそうろう。
または船にて参る者多くござそうろう。川筋
のところは一か月前より約束をいたし置き、
朝七ツ半ころより参るよし。中島宿屋へ
町方の者までも泊りまいりそうろうこと。人多く
入り込み申し、五日朝、橋本町門締まり、
三軒床垣にて締まり、用場上手も
垣にて締まり、中島も同じこと。三軒
床より向う河原、船と人に埋もり、
山の如くに御座そうろう。上(は)川崎町・天瀬より
京橋掛替図 国富文庫96/43
さきの「京橋御懸ケ替御渡リ初之留」には、架け替え工事の際の交通規制(渡し船の位置や規則など)や、工事現場の囲い(垣を結って番所や水桶を配置したこと)など、工事の際の具体的な様子が書きとめられていますが、これを絵図によって示しているものです。
図としては、左が北(旭川の上流)、下が西(橋本町)、上が東(小橋町)、右が南(旭川の下流)となっていますが、文字はさまざまな方向から書かれています。
中央に大きく描かれているのが京橋で、その周囲には垣がめぐらされていて、工事のために通行が止められていることがわかります。
川の上手(岡山城の東門の外)と、下手(藩の蔵米を納めた長蔵の前)には、公設の渡し場が設けられています。
京橋掛替図
京橋懸替附 国富文庫96/47
弘化4年以前の6回の架け替えや、渡り初めの家族の名前など、「京橋御懸ケ替御渡リ初之留」との重複も多いですが、関連する雑多な文書の断片が集められたものです。現在は虫損が甚だしく、裏に白紙をあてて巻いて保管されています。
画像を掲載した冒頭の部分には、弘化4年以前の架け替えの時期(延宝元年、天和3年(実際は元年)、元文元年、天明4年)や、元文元年の渡り初め式で橋を渡った家族の名前と年齢が書かれています。
京橋懸替附の冒頭
京橋詰惣門御建替御入用帳 国富文庫96/44
京橋の西詰にあった惣門の建て替えにおける金銭の出納帳簿です。
近世の都市では、市内の重要な場所に門や木戸が設けられていて、夜間には閉じられて治安を守っていました。岡山でも市内へ通じる主要な街道の出入り口には惣門が設けられていましたが、京橋の西詰にあった惣門の付近には高札場が設けられ、領主から市民への重要な達しが周知される場でもありました。
備前岡山京橋渡り初図 国富文庫96/42
弘化4年4月5日に行われた、盛大な渡り初め式の様子を描いた5枚続きの錦絵です。原図を描いた絵師が誰であったかは錦絵そのものに記されておらず、判明しません。現在は収納の便のために巻子装に改められています。
画面をみると、左手奥の旭川の向こうに岡山城が遠望されます。左から橋本町、惣門と高札場、ひしめきあう多数の船の舳先、渡り初めが行われている京橋、西中島町、中橋、東中島町、小橋、小橋町と続いています。
青色と黄色に色数を限り、赤系統の色彩は画面右手の旭日にだけ施して、すっきりした色調にまとめあげています。橋上で繰り広げられる渡り初め式をクローズアップしつつも、これを見守る群衆の広がりを、船の舳先の密集や、橋の下の河原で眺める人々の描写を通じて暗示しています。幕末期の橋とその周囲の情景をヴィジュアルに追体験することができる貴重な画像資料です。
右端の短冊形の中の文は、次の通りです。
(読み下し)
六十一年目京橋御掛替弘化三丙午秋御普請初り来ル 正月十六日往来止め
道筋上仲買町舩着町渡海場御蔵前御番所往来舟渡しびくに
橋渡り小橋新地往来相成其外上水之手往来御番所舩渡しに
相成外ニ上下手ニ五ケ所舩渡し有之候事
(大意と補足説明)
六十一年目、京橋御掛け替え、弘化三(年)丙午秋、御普請はじまり来る。正月十六日往来止め、
筋、上仲買町、船着町渡海場、御蔵前御番所往来舟渡し、びくに(比丘尼)橋渡り小橋新地往来あいなり、そのほか上水之手往来御番所船渡しにあいなり、ほかに上・下手に五ケ所、船渡しこれ有りそうろうこと。
備前岡山京橋渡り初図
京橋は大正4年から6年にかけて行われた架け替え工事で、現在みるコンクリートの橋に生まれ変わりました。鉄とコンクリートによる近代の架橋技術の発展途上に建設された京橋は、円柱状の多数の橋脚を並べて梁でつなぎとめた特異な構造をしており、全国的にも貴重な土木遺産です。
当館には、江戸時代に沖新田で大庄屋を勤めた小西家の子孫で、大正期の京橋架け替えで設計にあたった岡山県の技手(当時)、小西隆氏が残した写真帖が所蔵されています。この写真帖には建設中の京橋の様子が日付とともに記録され、設計者によるとみられる短い説明が付せられており、これによって京橋の架橋にあたって取られた工法の詳細がわかります。また、竣工後の大正6年3月25日に行われた華やかな渡り初め式の様子も、おそらくそのとき配られるなどした記念絵葉書が貼り交ぜられて記録されています。
こののち京橋は、同じ小西隆氏の設計で大正11年から始められた追加工事により、幅員を6間から8間に拡張されました。翌年にこれが完成すると橋上を路面電車が通れるようになり、これによって旭川が東西に隔てている岡山の市街地は、これまで以上に緊密に結び付けられました。
小西技手の写真帖(大正6年頃か)(資料番号08103026「京橋掛替記念アルバム」)
小西家から当館へ寄贈されたこの写真帖には、建築工事の状況を写した21枚のモノクロ写真と、記念絵葉書から取られたとみられる大正期の渡り初め式の図版7枚が貼り込まれています。
この写真帖には作者名も制作年も記載されていないので明確なことはわかりませんが、写真の説明としてその傍らに朱色の文字で書き入れられた文があり、それらの用字の古さと工事の内容に関する的確な言及から、おそらくこの冊子は、工事からあまり多くの年月を隔てない時期に、実施設計にあたった小西隆氏本人によって作成されたものであることを推測させます。作者名の記入を欠くことも、自身への備忘ないしは記念であった可能性をうかがわせます。
小西技手の写真帖(表紙)
小西技手の写真帖(見開きの状態)
工事記録の写真には、はじめに河床へ松杭を打ち込み、コンクリート(混凝土)を注いで基礎を固めたこと、橋脚には鉄板が巻かれているように見えるものの、それらを基礎の上に組み立てた後、柱身を鉄筋コンクリートでつくっていること、橋床は格子に編んだ鉄筋をコンクリートで固めてつくり、当初は敷石が施されていたことなど、京橋の建設技法に関する多数の貴重な情報が含まれています。写真には、工事に携わる多数の人々(技師、引き廻し人夫、水夫、潜水夫、杭打ちに携わっている多数の女性の労働者)の姿も記録されています。
なお、橋脚の設置が終わったばかりの大正4年10月7日~8日には、暴風雨災害によって工事中の往来のために設けられていた仮橋が流され、橋脚にも多くの被害がありました。その様子を10月9日(土曜日)付けの『山陽新報』(7ページ)が次のように報じています(句読点を適宜補う)。
「仮京橋流さる
七日夜来の暴風雨は、先月九日の其れに比すれば被害の程度軽きも、雨量多かりし為め、床下浸水舟の流失等多し。而して最も多大の損害を被りたるは、京橋の架替工事にて、多数の日子を費して此程漸く埋立てたる五十四個の橋杭桶は、八日早朝より動揺し、工夫三十余名が警戒して仮橋の中央を二ヶ所切断し居たる甲斐もなく、午前九時二十分頃、未だ全く切断し了らざる間に、先づ東手の切断箇所より水の力によりて切り放され、次で西手の切断箇所も同様切り放されて流失したり。損害約千円。」
また、大正4年6月17日(木曜日)付けの『中国民報』(7ページ)に、次の特集記事が掲載されています。
「鉄と石との京橋 新しく成る新京橋の設計
京橋架換工事の第一着手として、此程既に西岸なる京橋巡査派出所前部の取壊しに掛りたるが、同派出所は当分の内現在建物の後半部に改築を加へて使用する事となり居れり。又東岸の佐々木写真館は、橋幅の拡張に伴ひ当然取除かざるべからざるを以て、目下県当局より立退きに関係し交渉中なり。而して仮橋は約一箇月後に於いて本橋より約五間下流に架設すべきが、此橋幅は僅に二間なれば牛馬荷車の渡橋は禁止さるべきを以て、向ふ一箇年半の間之等は相生橋を渡らざるべからず。新橋は最新ガーダー式に則り全長七十三間半幅十二間にして、僅に八分一の勾配なれば殆ど平坦なり。茲に主任技師桑邱工学士の最も苦心せるは、桁梁及川床深く基礎を築きたる十四箇の橋脚にして、全部鉄材及花崗石を以て造られ、幾十万貫の重量あるもの通過するも微動だも感ぜざるべし。路面は鉄筋コンクリートを以て固められたる上、一面に花崗石を敷詰め、東西両橋詰の左右に建つべき親柱は高さ十二尺にして、礎石は各三尺方の花崗石を用ひ、柱頭には四箇の電燈を点火す。又二十四箇の中柱も方二尺長四尺余の花崗石を用ひ、悉く柱頭に電燈を点ずる装置を為すべし。此間を縫ふ高さ四尺の勾欄は上下を石材として、中に「京」の字崩しの模様を現はせる鉄材を用ふべしと。斯くの如くして壮麗人目を驚かすべき新なる京橋は、一箇年数箇月の後には全部竣功すべしと。」
この中で、橋脚は「鉄材及び花崗石を以て造られ」とありますが、小西技手の写真では、基礎(これもコンクリート製)の上に鉄管を組み立て、鉄筋混凝土(コンクリート)で作られている旨が示されています。
桑邨工学士とは、後に触れますが、当時の小西技手らの上司で、岡山県の土木課長であった人です。
以下には、この写真帖の画像をひとつづつ紹介していきます(一部の画像は添付ファイルを開くとご覧になれます)。ただし、写真帖にはノンブルがないので、ページ数は最初から数えての番号です。
なお、写真帖のそれぞれの写真(または絵葉書)に朱字で付せられている説明文を、各画像の前に転記しています。
明治初年ノ京橋
下図
大正四年六月十日
施工ノ初メ
直営主任 技手 山本岩雄
設計者 技手 小西隆
小西技手の写真帖(1ページの全体)
添付ファイル
小西技手の写真帖(3ページの写真)
橋脚基礎木管沈下ノ実況
大正四年九月廿四日撮影(潜水夫使用)
小西技手の写真帖(3ページの写真)
小西技手の写真帖(4ページの写真)
橋脚基礎杭打ノ実況
大正四年九月廿四日撮影
小西技手の写真帖(4ページの写真)
小西技手の写真帖(5ページの写真)
橋脚基礎木管続管ノ実況
大正四年十一月十日 御大典ノ当日
小西技手の写真帖(5ページの写真)
添付ファイル
小西技手の写真帖(7ページ、下の写真)
同上(仮橋水害復旧工事ノ実況 大正四年十月十五日撮影)
橋本町側杭打
小西技手の写真帖(7ページ、下の写真)
小西技手の写真帖(8ページの全体)
橋台竣工ノ実況
上図 西橋台
下図 東橋台
大正五年三月十五日撮影
小西技手の写真帖(8ページの全体)
小西技手の写真帖(9ページの写真)
橋脚仮組立ノ実況
大正四年十一月十日撮影
小西技手の写真帖(9ページの写真)
小西技手の写真帖(11ページの写真)
橋脚組立足場及監督者
大正五年五月廿日撮影
自前列左 山本技手、小西技手、武田土木技手、青山工手
自後列左 引廻人夫 石田、小林、伊達、新、行正
小西技手の写真帖(11ページの写真)
小西技手の写真帖(12ページ、上の写真)
桁巻揚ノ実況
其ノ一
大正五年五月丗一日撮影
小西技手の写真帖(12ページ、上の写真)
小西技手の写真帖(12ページ、下の写真)
橋脚混凝土上層施工曻足場ノ実況
大正五年五月丗一日撮影
小西技手の写真帖(12ページ、下の写真)
小西技手の写真帖(14ページの写真)
桁巻揚ノ実況 其ノ三
大正五年六月十六日撮影
小西技手の写真帖(14ページの写真)
小西技手の写真帖(15ページの写真)
床鉄筋混凝土及鉄筋組立ノ実況
大正五年九月十九日撮影
小西技手の写真帖(15ページの写真)
小西技手の写真帖(16ページの写真)
竣工セル京橋
大正六年三月廿日撮影
小西技手の写真帖(16ページの写真)
添付ファイル
ところで、当時まだ26~27歳であった小西技手が、これほど大きい工事をひとりでまとめ上げたのでしょうか。それについては、職場の先輩の山本岩雄氏(岡山県技手)や、上司で土木課長であった桑邱茂氏(工学士、岡山県技師)らの補佐と指導があったことを考えるべきでしょう。
写真帖の最初のページの2枚目(右下)の写真で、小西技手とともに写り、直営主任と注記されている山本技手は、明治9年に岡山市四番町に生まれ、明治29年に東京攻玉社土木科を卒業して近江鉄道株式会社技手となり、明治32年から岡山県土木科に勤務していました。京橋の工事の後は大正11年に岡山県を退職し、翌年から上道郡西大寺町の技師、そして大正14年からは倉敷市の技師となり、昭和6年11月から土木課長を務めました(『岡山県土木名鑑』昭和6年、坂本一雄編集、土木建築新聞社発行による)。
学識豊かな山本技手は、京橋の工事の直前にあたる大正3年8月に、著書『実用土木学』を、桑邨課長の監修で岡山市内の大久保翠琴堂から刊行しています。これは、本文が525頁にわたる書物で、内容は測量学(総説、平面測量、角度測量、高低測量、測設、水上測量、三角測量)、道路学、橋梁学(総説、桁橋、展成鉄桁橋、木鉄混合橋)、施工法(総説、石工、煉瓦工、混凝土工、土工、基礎工、擁壁工、橋台工、橋脚工、暗渠工、樋管工、拱橋工、隧道工)と、当時の土木学の全般(調査・設計・施工)にわたる項目を、数式や図を用いて解説を行った技術者のための専門書です(本書の内容は、国立国会図書館のサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」で各ページを逐一閲覧できます)。
小西技手、山本技手は岡山県に任用された職員でしたが、桑邱課長は内閣から任用されて各県へ配属されていた高等官(地方技師)でした。国立公文書館デジタルアーカイブの公開文書(太政官・内閣関係、第五類、任免裁可書)よると、この人は明治36年1月31日に山口県技師に任ぜられ、明治38年2月23日に高等官五等に叙され、明治40年4月23日から岡山県技師に転任していますが、大正5年3月31日には何かの事件に関連し休職しています。
山本技手の著書に盛り込まれた該博な内容が証し立てているように、技術者たちはそれぞれ専門の教育機関で本格的な土木学を学んでおり、当時の先端の知識と理論に基づいて設計にあたりました。少なくとも国道や県道に架かる重要な橋梁であれば、近代的な土木学の基礎を欠いた手探りの制作などではなかったはずです。その中でも小西隆氏は、後に述べるように、やがて内閣から高等官に任ぜられて日本各地で重要な仕事にあたることになります。
小西技手の写真帖(20ページに貼り込まれた絵葉書)
開通式々場 其ノ四
渡リ初メ式
小西技手の写真帖(20ページに貼り込まれた絵葉書)
小西技手の写真帖(21ページに貼り込まれた絵葉書)
開通式々場 其ノ五
渡リ初メ式 小学校生徒敬意ヲ表ス
小西技手の写真帖(21ページに貼り込まれた絵葉書)
小西技手の写真帖(22ページに貼り込まれた絵葉書)
開通式ノ後
小西技手の写真帖(22ページに貼り込まれた絵葉書)
大規模な土木工事はひとりの力でなし遂げられるものではありませんが、大正時代の京橋の架け替えでは、たとえ上司や先輩との共同であったにせよ、一連の設計・施工(予備設計、実施設計、施工監理)の全体にわたり小西隆技手が重要な役割を果たしたことは、この人が残した履歴書に実施設計者として明記されていることや、ここに紹介した写真帖の存在と、そして何よりもその後の全国各地での活躍ぶり(とくに橋梁の分野における)から、確かなことと考えてよいようです。
子孫から当館へ寄贈された履歴書や辞令書等によると、小西隆氏は明治22年8月14日に上道郡三蟠村(現岡山市中区江崎)に生まれ、旧制岡山中学を卒業後、名古屋高等工業学校で土木学を学び、明治45年に岡山県の技手に採用されました。岡山県では小田川の改修工事や、宇野港の水道の整備、旭川と吉井川の上流探査と流量測定、そして京橋をはじめとする県内各地の多数の橋梁の調査と設計に携わりました。
京橋とのかかわりについては、本人が記した履歴書(内容はむしろ業績書というべきもの)に、次の記載があります。
(明治45年4月より大正2年3月までの項目の中に)
京橋ノ調査及予定設計
岡山市旭川架設国道橋改築予定案トシテ地質ノ調査及全長七三、五間巾員四間、六間、八間の三種構桁予定設計
(大正4年4月より大正5年3月までの項目の中に)
京橋実施設計
岡山市旭川架設輾圧鋼構桁二〇呎一三径間一六、五呎二径間巾員六間延長七三、五間鉄筋混凝土床版橋面鋪石橋脚円形鉄筋混凝土柱橋台切石練積
(大正5年4月から大正7年3月までの項目の中に)
京橋現場監督
岡山市旭川京橋改築直営工事現場監督
(大正11年4月から大正11年10月までの項目の中に)
京橋拡築設計及監督
岡山市旭川架設国道橋前年施行ノモノ仝構造巾員二間拡張有効巾員八間トシ軌道併用橋拡築
これをみると、明治45年度(大正元年度)にはすでに予定案の設計が始まっており、橋桁の幅員を4間、6間、8間とする3種類の設計が試みられていましたが、実際には大正4年度に6間で実施設計が行われました。そして大正11年に千葉県へ異動する直前の小西氏本人によって、路面電車の軌道敷設が可能になる8間幅への拡張工事が設計されていたのでした。京橋の構造とその設計については路面電車の建設計画との関連が問題になるところですが、上述の経過はそのことに複雑な背景があったことを暗示しています。
また、さきほども触れましたが、橋脚の材質については「橋脚円形鉄筋混凝土柱」と明記されています。
なお、小西氏は大正3年度に水力発電調査のために旭川と吉井川の上流を探査して流量を調査し、さらに旭川の下流と児島湾付近で深浅の測量を行っています。その前の年に小田川改修の調査にあたったこととあわせて、京橋の設計を行うまでには河川一般について研究し、旭川の形状や流量についてすでに調査を尽くしていたようです。
こうして岡山県での働きを認められたからか、小西氏は満32歳のとき(大正10年10月21日)内閣から岡山県技師と高等官七等に任ぜられて、以後は内務省からも俸給を受けるようになります。
しかしそれからまもなく、大正11年11月からは千葉県の技師に転ずることになり、その翌年に関東大震災に遭遇して、道路などの復旧工事に携わりました。すると大正14年3月5日からは、内閣から首都の再建のために臨時に設けられた震災復興局の技師に任ぜられ、東京府の深川区と本所区内を中心に首都圏の河川に架かる多数の橋梁の設計を行いました(ちなみに大正12年9月27日付け勅令第425号による帝都復興院官制では、専任の技師は105名となっています)。そして満39歳の昭和3年までには高等官四等、正六位まで栄達しました。
復興局の仕事が一段落した昭和5年には免官となり、やがて熊本市の土木課長に就任して、陸軍大演習の工営や新興熊本大博覧会の開催などで活躍するとともに、内務省からは都市計画熊本地方委員会の幹事に任ぜられました。
そして昭和10年には熊本市を退職して郷里の岡山へ帰り、石原市三郎市長のもとで岡山市の土木課長、ついで助役(在任期間:昭和12年1月23日~昭和13年8月7日)に任ぜられました。その頃の岡山市は、大正12年に都市計画法の施行対象都市に選ばれてから、都市化の進展に伴う市街地の膨張・発展に備え、中心部の道路拡張と周辺部における区画整理を市政における最大の課題として推進しているところでした。小西氏はおそらく、その分野で手腕を発揮したものと思われます。石原市三郎氏も岡山市長に就任する前は復興局で首都圏の区画整理事業にあたっていたので、そのことを通じて2人があらかじめつながりがあった可能性を考えてみたくなりますが、現在のところ、まだそれを証し立てる確証はありません。
そして石原市長が満期で退任すると、小西氏は後任の時実秋穂市長が就任するまでの間、市長職務の臨時代理を務め(昭和13年2月25日~3月18日)、その年の3月議会では対応に当たりました(岡山市議会事務局編『岡山市会史』第1巻)。また、岡山市に在職中は、内務省から都市計画岡山地方委員会の幹事や委員にも任ぜられていました。
小西隆氏の履歴書、辞令書等
これまでに記したことを証し立てる資料として、小西家から当館へ寄贈された文書の中に、小西隆氏が岡山市で助役などを勤めた昭和13年頃までの各種の証明書や辞令書、感謝状等が多数含まれていますので、その一部を展示しています。
また、あわせて寄贈された履歴書と業績録には、おおむね復興局の技師であった昭和5年頃までの事績がまとめられていますが、岡山市を退職してからはこうした記録が残っていないため、経歴はよくわからなくなります。
なお、『三蟠村誌』(三蟠村誌編纂委員会編、昭和57年)33~34頁には、中国電力三蟠発電所の開設(昭和11年)に伴って操山から水道管布設工事を設計し、三蟠村の住民にも水道を供給した旨が記されています。
小西隆履歴書(1ページ)
小西隆履歴書(2~3ページ)
さまざまな情報から小西隆氏の経歴をまとめ、本人が残した履歴書(内容はむしろ業績の書上げに近いもの)の翻刻を行いました。いずれも下記の添付ファイルを開くと、ご覧になれます。
岡山県内の近隣の博物館、図書館、記録資料館が連携し、まとまった時期に共通テーマで展示を行うことで、地域の資料の豊かさと各館の特徴ある活動を広く知って頂こうと、連携展示を行っています。平成28年度「ひろがる酒の輪」(13館)、平成29年度「ひろがる食の輪」(11館)に続き、平成30年度は瀬戸大橋と邑久長島大橋の架橋30周年にあたることから、「橋」をテーマに選びました。
海、河川、湖沼、渓谷など、自然地形が隔てる両岸をつなぐために橋が架けられてきました。その時代の土木技術を結集した大規模な橋もあれば、小川や用水路にかかる生活になじんだ橋もあります。橋をかけることで鉄道や道路がつながり、往来や人と物の交流が盛んになります。橋は両岸の結びつきを深め、人々の生活を変え、心の動きに働きかけをします。
架橋30周年の2つの橋に限らず、私たちの周囲にはさまざまな橋があります。参加館の工夫を凝らした展示で、地域に根差す「橋」について関心をもっていただければ幸いです。
下記の添付ファイルを開くと、詳しい内容を記した一覧パンフレットをご覧になれます。
電話:086-223-3373 ファクス:086-223-0093
所在地:〒700-0843 岡山市北区二日市町56[地図別ウィンドウで開く]
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